「貧富の差」が生死を左右すると実感した阪神・淡路大震災から22年

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1995年1月17日。

当時、私は大学生でした。関東に住んでいたので、阪神・淡路大震災による揺れは全く感じませんでした。テレビをつけると、倒壊した建物、燃え広がる炎、家族や友人を失った人たちの様子が繰り返し、報じられていました。学年末のテスト期間中でしたが、夜遅くまで勉強そっちのけでテレビニュースに見入っていました。

 

困っている人がたくさんいるのに、安全なところで何も行動しない自分に「おまえ、何もしなくていいのか?」と自問自答。テスト期間が終わると、神戸に向かいました。すでに2月に入っていたと思います。新幹線で新大阪まで(その先は不通)行き、在来線に乗り換え、住吉駅まで。そこから先は歩きで、とりあえず神戸市役所を目指しました。なにかやれることがあるのではないか、ボランティア・スタッフを受け付けているのではないかと考えたためです。

何時間かかったのか、今ではまったく覚えてないです。道中、テレビで見た景色が広がり、「ここは本当に日本か?」と目を疑いました。カメラを持っていましたが、とても写真を撮る気にならず。ただ黙々と歩きました。文字通りぺちゃんこになってる木造住宅や、1階部分が潰れてしまっているマンションはザラでした。その一方で、外から見るとびくともしてないように見える住宅やマンションもありました。おそらく、お金をかけてしっかりと地震対策をしていたんでしょう。そんな光景を見ながら、「将来、家を建てるとき・マンションを買うときは、ケチってはいけないな」とぼんやりと考えていました(ただ、残念ながら現在も賃貸暮らしです)。

被災された方々は、小学校などに設けられた「避難所」に寝泊まりされていました。学校の校庭には仮設テントや仮設トイレが並び、申し訳ないと思いつつ、私も仮設トイレを使わせてもらいました。やっとの思いでたどり着いた神戸市役所では、「ボランティアしたいなら区役所に行ってくれ」という対応でした。震災対応で忙しく、どこの誰かも分からない大学生の相手などしてられないというわけです。いま思えば当然ですけど、当時は、「力になりたいと思ってはるばる来たのに。。。」とちょっと悲しくなったりしました。若いですね。市役所をでて向かったのは、灘区役所。ここで、「灘区災害ボランティア」なる組織を紹介されました。灘区にある都賀川公園に設けられた仮設テントで、被災者の方々のためになにができるか考えながら行動するボランティア組織です。ここで、2月~3月にかけて、3週間ほど活動させてもらいました。

主な仕事は、

  • あちこちから届いた援助物資の配布(これがメーン)
  • 水のタンクを持ってマンションの上層階まで運ぶ(水道が出ないから)
  • 避難所にいって、被災者のかたのよろず相談に乗る(話し相手になるだけで喜ばれる)
  • ゴミ拾い

という感じでした。避難所や区役所には、本当にたくさんの援助物資が届きました。人気があったのは毛布。避難所暮らしは寒いですからね。食料もたくさん届きましたが、どうしてもおにぎりや菓子パンが中心。被災者の方々は「温かいものが食べたい」とよくおっしゃってました。豚汁の炊き出しなんかがあると、長蛇の列でした。

私はある避難所で、女性のお年寄りと仲良くなり、よく仕事を頼まれました。印象的だったのが、衣類の洗濯。避難所からちょっと離れたところにあるコインランドリーが営業再開(3月に入ると、水道・電気などが復旧し始めていた)したのですが、そこに毎日のように通いました。小さな子供たちの遊び相手になることも、大学生ボランティアの仕事?の一つでした。みな気丈に振る舞ってますが、話をきいてみると、身近な人を亡くしていたりしていて、かける言葉を失いました。あの子たち、いまごろ20歳代の半ばになっているはずです。

一緒に活動したボランティア仲間や、避難所にいらした方々、一緒に遊んだ子供たちは元気かなあ。毎年、この季節になると、あの神戸での日々を思い出しています。

 

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